龍泉寺の歴史


 

九州は肥前の国、陶磁器の里と往時の焼物の輸出港伊万里の間を、松浦鉄道が走っている。その中ほど大木駅の近く、白塀と竹藪に囲まれた浄域にある龍泉寺は、真言宗大覚寺派に属する肥前路の巨刹である。

 

龍泉寺の創建は天文元年(1532年)。今よりおよそ470年程前である。鎌倉時代から戦国末期まで長崎県や佐賀県西部に割拠した松浦党の流れをくむ豪族、松浦丹後守親の祈願寺として建てられた。寺は最初、松浦党の居城、有田唐船城の城域内にあった。
天正四年(1576年)、唐船城が龍造寺隆信の軍門に下ったため、城は廃されたが寺は残り、江戸時代中期に現地に移された。
開基阿闇梨は、阿哲法師、現在は第二十二世の知乗和尚である。八百戸弱の檀信徒をかかえ法灯連綿として近郷近在の善男善女の信仰の道場として伽藍の荘厳を保っている。

 

 
現在の山門は、二百余年の星霜に耐え美観を呈し、また過去帳の中には有田焼の陶祖李参平「月窓浄心・上白川三兵衛・明暦元年8月11日」が記載されてあり、三面の懸仏(室町時代の作と推定)と共に当山の貴重な文化財となっている。

8月18日、毎年行われる夏祭「十八祭」は鍋島藩初期雨乞浮立として始まり、肥前浮立の粋を集め、徳川初期浮立の典型として文化財的価値が高く今も有名な夏祭十八夜として賑わっている。

 

 

重要文化財

 

◆龍泉寺過去帳

 

過去帳とは、寺院が檀家・信徒の死者の法名・俗名・死亡年月日などを記録した帳簿です。ここに紹介する龍泉寺過去帳は有田焼陶祖李参平の記録が残るものとして、歴史的な価値が高いものです。李参平の記載は「月窓浄心上白川三兵衛明暦元年乙未8月11日」となっており、有田町白川墓地にある李参平墓とされる墓石と戒名死亡年月日が一致しています。また娘の妙夏禅尼(万治3年没)も記載されています。

日本で初めて磁器を焼造したのは、李参平であると広く信じられています。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で鍋島藩により肥前に連れてこられた参平は、有田泉山で原料となる磁石を発見し我が国で初めて磁器を焼きました。参平は陶工の指導者となり、藩の厚い疵護のもと有田皿山は急速に発展を遂げたのです。これからも偉大な先人李参平の名は過去帳に永く残り、彼の残した大きな遺産は永遠に語り継がれることでしょう。

 

 

◆龍泉寺山門

 

龍泉寺は天文元年(1532年)に唐船城主有田丹後守親の祈願所として唐船山の南の麓に創建されましたが、寛文年間(1661年〜1673年)に現在地に移ったと云われています。

ここに紹介する山門は、解体修理の際発見された棟札により天保四年(1833年)に建立されたことがわかっており、歴史のあるこの寺で最も古い建造物です。四脚の本瓦葦入母屋造で、いかにも天保期のものらしく、華やかな細部装飾が施されています。

 

 

◆「龍泉寺十八夜祭」

万治年中(1658年)肥前の国有田郷は大旱魃に見舞われ山野の草木はことごとく枯死寸前となりしとき、龍泉寺の中興開山尊映法印故実にのっとり雨乞の祈願を立て八大龍王に法楽をあげまた大里村(伊万里)の海辺にこぞって雨乞の浮立を行った。

尊映法印の法力により効果はてきめん、満願の日一天にわかにかき曇り大雨降り百穀百草皆よみがえり、役人も百姓も一緒になって舞踊り大願成就を祝った。この折の浮立は後に肥前浮立の粋を集めて鍋島藩初期、竜泉寺雨乞浮立として大成された。龍泉寺の本尊聖観音菩薩の佛祭日18日に因み、毎年8月18日の夜は若者の勇壮な一番鐘打ち、地囃子打ちなどが相まって浮立と花火の賑やかで楽しい「十八夜祭」として永年近郷の人々に親しまれている。

 

◆龍泉寺懸仏

欽明天皇7年(538年)、我国へ仏教が伝わって来ると共に仏像も伝わってきました。また、弥生時代から人々は青銅製の鏡を愛好していました。平安時代におこった神仏習合の考え方から、本来神の依代であった鏡の表に仏の像を刻むようになり、さらに中世に入り半肉彫・丸肉彫の像を据えるようになりました。これを近代に入ってから「懸仏」と呼ぶようになりました。

龍泉寺の懸仏は、その様式等により室町時代の作と推定されるもので径35cm余りの鋳銅製の円鏡の中央に鋳銅製の仏像を取り付けたもので、吊金具が中央上部に一ヶ所付けられています。鏡の外縁には縁取りが施されており、鏡としての機能は失われています。三体の仏さまのそれぞれのお名前は、千手観音座像、虚空蔵菩薩座像、そして一体は不明です。

 

◆千手観音座像 ◆虚空蔵菩薩座像 ◆謎の菩薩座像