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 真言宗高野派 
 釈迦如来 
 799-02 徳島県鳴門市大麻町板東 
 0886-89-1111 
 高徳線坂東駅から北へ700m 

縁起

 霊山寺は天平年間(729‐48)聖 武天皇の勅願によって、行基菩薩 が開基されました。  弘仁6年(815)弘法大師はこの 地に21日間止まって修法をされ、 四国に88力所の霊場を開くことを 祈願されました。この間に釈迦如 来の霊感を受け、この像を彫刻し て本尊とし堂宇を建立し、安置し て天竺の霊山をわが国に移す意味 で竺和山・霊山寺と名付けまし た。その後大師は四国の地に大日 如来の胎蔵界曼荼羅の道場を求 め、各国を発心(阿波国)修行 (土佐国)菩提(伊予国)涅槃 (讃岐国)の道場とし、88力寺を この道場の中にお開きになって霊 山寺を88力所霊場第1番の札所にお 定めになりました。  その後は寺運も大いに栄えまし たが、天正年間(1573‐93)長曽 我部軍の兵火にかかって多くの堂 塔を焼失しました。  やがて再建されましたが、明治 24年に通夜堂から出火して本堂と 多宝塔を残して焼失し、現在の建 物はその後再建されたものです。 本堂は昭和40年に解体修復されま した。

風景

 堂々たる構えの本堂には本尊釈 迦如来を安置してあり、その右手 の大師堂ではお遍路が出発に当っ ての授戒を受けることができま す。授戒とは十善戒すなわち不殺 生(生き物を殺さない)、不偸盗 (盗まない)、不邪淫(邪淫しな い)、不妄語(偽りを言わな い)、不綺語(虚飾のことばを口 にしない)、不悪口(悪口をいわ ない)、不両舌(二枚舌を使わな い)不慳貧(むさぼらない)、不 瞋恚(努らない)、不邪見(不正な 考えを起さない)以上10の誓いを たてることを誓い、これを守って 弘法大師のお弟子になることで す。しかし授戒を受けなくとも、 この気持だけを失わぬようにして 順礼を続ければ、見知らぬお遍路 さん達との出合いにも温かいふれ あいが生まれ、楽しい旅が続けら れることと思います。  このお寺の本坊は四国巡拝の総 本部になっており、またここで 笠、杖、白衣などの巡拝用品や納 経帳、納経軸なども好みのものを ととのえることができます。  88カ所巡拝を終り大窪寺て結縁 をすませたお遍路は高野山に“お 礼参り”をするのがならわしてす が、その前に第1番札所のこの寺へ 四国でのお礼参りをすることが望 ましく思います。

四国遍路の伝説

 昔、伊予の国浮穴郡荏原の郷に 衛門三郎という強欲な長者がいま した。ある日、門前にひとりのみ すぱらしい托鉢の僧が訪れました が、衛門三郎はこの僧が弘法大師 であることも知らず、僧の持って いた托鉢を取りあげて投げつけま した。ところがその後8人いた男の 子が次ぎ次ぎなくなりましたの で、これには強欲非常な衛門三郎 も恐ろしくなって邪見をひるがえ し、家を捨てて大師を訪ね四国巡 拝に旅立ちました。これが四国遍 路のはじまりといわれています。
 しかし、いくら四国の霊場を 回っても大師にお会いすることが できず、遂に21回目の巡拝を続け ているうちに天長8年(831)阿波 国の焼山寺の麓で病いに倒れ、明 日をも知らぬ身となりました。
 その時弘法大師が突然枕元に現 れて三郎の手に衛門三郎と刻んだ 1寸8分の石を授けますと三郎は安 心して息を引取りました。その後 地方豪族河野息利に男子が生まれ ましたが何日たっても右の手は 握ったままで聞きませんのて寺に 願をかけたところ、手の中から衛 門三郎と書かれた石が出てきまし た。そこでこの子こそ衛門三郎の 生まれかわりと、石を伊予の51番 札所安養寺に納めたので寺号を石 手寺と改めました。
(石手寺縁起より)